かんながら … 神々とともに


日本人の根っこ


 「かんながら【随神・惟神】」とは、日本人が歴史のなかで育んできた文化と暮らしに根付いた感性をよくあらわす言葉です。
 神道のことを「随神の道」ともいいますが、「神々とともに」「神のご意志のままに」という意味で、日常生活を送るわたしたちの根っことなる感覚を表しています。

 わたしたちが暮らす現代の社会を見ると、国や町にも、学校にも、そして家庭や個人にも、いいしれない不安や閉塞感が覆っています。
 不安や混乱は人の心にあるものですが、人の生き方や、人間関係、子育てや教育、という社会のもっとも大切な部分が揺らめいていて固まっていません。
 社会とは個別の人が縦にも横にもつながりを持つことですが、人は、おのずから考えを持ち、様々なものを造り出す力のある存在です。しかし、どこかで何かに"よりどころ"を求め、何かを助け、助けられながら、今ここにいる存在でもあります。
 ものごとに対する見方や価値観がさまざまにあって、特に個の"権利"や"自由"ということには大きな価値が認められています。
 価値観の多様化ということは素晴らしいことですが、それが「自分のためだけ」に向いていることに問題の根の深さがあります。自分個人の主張ばかりがまかり通り、誰もがかたく信じて共有できる"動じない信念"を持ち得ていない、つまり心の根っこに鍵があるのです。
ではこのような混乱は今に始まったことなのでしょうか、それは日本の歴史に目を向けても、時代の変わり目に何度も起こってきたことです。大きな戦乱の時、政権が交代するとき、外国文化と対面したときなど、必ず人心の乱れが起こり、社会に大きな不安が渦巻きました。
 そのような時に、先人たちが難局を切り抜けることができたのは、日本の悠久の歴史のなかで変わることなく伝えられてきた価値観、信仰に裏打ちされた信念があったからに他なりません。


日本人の信仰と感性

日本人の信仰の起源は、遺蹟の祭祀跡などからすでに縄文時代には見ることができます。
 その長きにわたって培ってきた信仰は、荘厳な山々や大海原の彼方にご先祖たちの世界や神々の世界を見て、深く豊かな森の木々、苔むす岩々には神の力を感じ、こずえを渡る風に何かの知らせを聞く、という感覚そのものです。
「八百萬(やおよろず)の神々」といいますが、これは「日本には数え切れぬほどの神様がいらっしゃる」ということを表していて、営み続ける生命の姿や自然の恵をもたらす何かの力、ご先祖様の御霊に神の存在を見てきたのです。つまり「祖先崇拝」と「自然への畏敬」という信仰が芯にあるのです。

 
 
 
 
 

●社の祭

日供祭 原始の姿から時を経て、森や木、岩そのものから「社」を建て、ここに神を迎えて祀り「神社」という形をつくりました。社を核に地縁や血縁で結ばれていた共同体から「集落」や「村」となって社会の基礎ができたのです。村が町となり市となって現代へと続きますが、今も日本各地で神社を中心とした社会は数多く残っています。
 神社を中心とした社会は、一つの大家族として生活し、精神面でも生活面でも共に支え合って暮らす社会です。特に人々の結びつきには「祭」が大きな役割を果たしているのです。
 神の恵みと祖先の恩に感謝を捧げ、神と人が一体となり、神への気持ちが続く限り永劫に続けられていくのが祭です。
 祭儀や神輿の奉仕、神楽やお囃子に山や山車と、思い浮かべるだけでわくわくしてくるのが日本人の祭りへの意識です。
 祭に欠かせない技術や知識は、親から子へ子から孫へと受け継がれます。世代をこえて奉仕することで自然に規律が伝えられます。各世代がもろともに信仰という同じ心で参加し、結束を固める。そして神のご神徳、新しい生命力をいただくのです。

みたま さきわう 祭

「祭」とは「神様をおまつりする」ということと同じです。社を設けて神の神霊をお迎えする「まつる」という形、神霊のさきわう「まつり」という行為。いずれも住民や信仰する者たちが、神と人との社会がいつまでも幸せに続くことを願って行うものです。
 
 「御霊振り(ミタマフリ)」「魂振り(タマフリ)」という感覚がありますが、これは祭が高まり人が昂揚して盛り上がると、神の御霊も賑わすことができる、共に感動を得ることができるのです。魂振が行われると、次には新たな生命力を得て本の生活にたち返り「さきわい」「平安」が訪れるのです。
祈り  また先祖をまつることは、今この世に生をうけているものにとって欠くことのできない大切なことです。死に際しての葬儀はもとより、日々の祖霊との結びつきは日本人の感性が大きく作用しています。  現在葬儀や先祖をまつることは大半が仏式で行われますが、行われている中身は日本の信仰にのっとられています。
 死は生命の終わりで全ての終焉を意味する、という考え方は、西洋の思想が入ってきてからの新しいものです。
 神様の世界から命をいただいてこの世に生まれ、死ぬと体は無くなりますが、御霊、魂はご先祖様の世界、神様の世界へ戻っていくと信じられてきました。お盆や彼岸の先祖迎えや精霊送り、お正月の歳神様の信仰などにもよく見られますが、「あの世」と「この世」を行き交うのが人の御霊(みたま)なのです。神や先祖の世界である「あの世」はずっと遠くの世界ではなく、わたちたちの生活する周辺にある、ご先祖の御霊はいつも身近で見守って下さっているのです。


親から子 子から孫へ


家庭に神棚や仏壇があり、父母が毎朝掃除し、お供え物をしてお参りを欠かさない、その姿だけでも子どもたちに多くのものを伝えることができます。
子どもの心がさまよってしまうのは、よりどころとするものが無くなっているからです。父は父として母は母として、確固とした信念を持って育てることはもちろんですが、人の社会を包んでいる世界のことも知る必要があります。
 「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。その「根っこ」を見極めるためにも、父母をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるのです。人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。
 しかしその姿を保つには相当の努力が必要です。心身を清浄に保つためには、神や祭、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。
 本来の人としての姿にもどることを願う。これこそが神道の祈りです。
 神道では、具体的な教えを言葉や文章として遺していませんが、日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきています。
「神のご意志のまま」に、「神の意に背かない」生活を常に心がけること。
「教えられたことを忠実に守る」のではなくて「おのずから神の意志というものを推し量って生きる」信仰が「かんながら」なのです。
「かんながら」の信仰を持ち、信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。