平安神宮の祭典行事

行列の概要

明治維新時代

  • 維新勤王隊列

    平安講社 第八社(中京区・朱雀学区)奉仕

    明治維新の際、幕府の遺臣が東北地方で反抗した時、丹波の国北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して官軍に参加した当時の行装を模したものです。三斎羽織(さんさいはおり)に義経袴をはき、下には筒袖の衣、頭に鉢巻または赤熊(しゃぐま)をかぶり、脚絆、足袋、草鞋をはき、刀を身につけ、鉄砲を携えた姿です。また、肩章をつけ階級を表しているところなど、近代軍制への過渡期を示しています。この山国隊は、時代祭の始まった当初より同村有志が奉仕していましたが、大正10年より朱雀学区が継承して現在の名称で奉仕しています。

  • 維新志士列

    京都青年会議所奉仕

    明治維新の志士と云われる人々は、徳川幕政の末期における公家・武士の知識階級層の人達で海外の事情にも通じた人が多くいました。当時は開港・攘夷など内政外交とも問題が山積していましたが、幕府にその処置をとる力が無くなっていたため、憂国の志士達が身を挺して国事に奔走しました。維新の大業はこれら幾多の人々の大きな働きと犠牲とによってその基礎が築かれたのです。ご祭神孝明天皇百年祭を迎えた昭和41年(1996)に、これらの志士たちを顕彰する維新志士列が加わりました。志士の多くは20~30歳代が中心ということもあり、京都青年会議所が担当奉仕しています。

江戸時代

  • 徳川城使上洛列

    平安講社 第六社(下京区・南区)奉仕

    徳川幕府は、朝廷の大礼などの大切な儀式や年始などの際には必ず城使を上洛させ、皇室に対し礼を厚くしていました。城使には親藩・譜代の諸侯が選ばれ、ことに即位の大礼には将軍家名代が多数の従者をしたがえ、その服装器具などは非常に華美なものでした。 本列は普通の場合を模したもので、城使は騎馬で、乗物の駕籠は幕末当時の形式をとったものです。先頭の槍持、傘持、挾箱持など奴(やっこ)が発声する「ヒーサー」の掛け声や動作は当時の面影を偲ばせてくれます。

  • 江戸時代婦人列

    京都市地域女性連合会奉仕

    江戸時代の京都で話題となり活躍した女性が登場します。和宮(かずのみや)はご祭神孝明天皇の御妹君で、公武合体のため将軍家茂に降嫁されました。行列では輿入前16歳頃の近世女房(にょうぼう)装束で宮廷内のお姿を表しています。蓮月(女流歌人。後年尼となり蓮月と称しました)玉瀾(池大雅の妻)閨秀画家として南画をよくしました。中村内藏助の妻(京都銀座で巨万の富を築いた妻)妻女の衣裳比べで抜群の誉れを得たといわれ、『翁草』の記事により考証されています。お梶(女流歌人で、祇園に茶店を営んでいました)吉野太夫(寛永の頃、京都六条三筋町の名妓、後に豪商灰屋紹益の妻となりました)出雲阿国(出雲大社の巫女)京都四條河原で「やや子踊」や「かぶき踊」演じ、歌舞伎の創始者とされています。

安土桃山時代

  • 豊公参朝列

    平安講社 第十社(伏見区)奉仕

    豊臣公参朝のうち、慶長元年(西暦1596年)5月の秀頼初参内(朝廷へ参上すること)と、同2年9月の元服の時は最も盛儀であったと伝えられていて、本列はその様相を模したものです。乗物は特に盛儀に使われた牛車で、檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)といい、蒲葵(びろう)の葉で葺き、すだれなどの色文(いろあや)装具は最高の様式のものです。前後に従う大名は実際はもっと多数ですが、本列はその一部を現わしたものです。また服装は当時特に「一日晴れ」として規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通ではなく、袴をつけ、太刀も武家風です。徒歩の者は当時の武家風の特徴を現わしています。

  • 織田公上洛列

    平安講社 第五社(東山・山科区、中京・下京区の一部)奉仕

    応仁の乱後の京都は非常にさびれ、皇室も衰微してしまいました。永禄11年(西暦1568年)9月、織田信長は正親町天皇のお召しに応じ、兵をひきいて上洛し、皇居を修理、都の復興に努めて民を落着かせました。本列は、朝廷の命を受けた立入宗継が、粟田口(京都市東山区)に織田公を出迎え上洛する姿を模したものです。 この時代に注目すべきは、戦に鉄砲が導入されたことで、甲冑の多くは胴丸で、各部に鉄板を使った当世具足(とうせいぐそく)の新形式で、江戸時代にかけて用いられたものです。

室町時代

  • 室町幕府執政列

    平安講社 第十一社(西京区)奉仕

    本列は、足利将軍を中心とした当時の武士の軽武装姿を表現するもので、騎馬の将軍は赤地金襴桐文様の鎧直垂に引立烏帽子、紺糸縅の喉輪、脇楯、佩楯 (はいだて)の小具足姿で幕府の執政にあたる三管領・四職に任ぜられる主要氏族が御供衆として従い、また公家・法中・御博士・医師など他の列にない特色ある風俗を表現したものです。

  • 室町洛中風俗列

    深草室町風俗列保存会奉仕

    本列は、16世紀、室町時代後半に経済力を蓄積した京の町衆によって盛んに催された風流踊りを再現したものです。風流傘を中心に、内側に囃子方で構成する「中踊り」と外側に踊り手で構成する「側踊り」からなっています。当時の風流踊りは男性のみで、奇抜な仮装や妻女の派手な衣裳で着飾っていました。この風流踊りは全国各地に伝わり様々な芸能を生み出し、また江戸時代以降の盆踊りの原型ともなっています。

吉野時代

  • 楠公上洛列

    平安講社 第九社(右京区)奉仕

    元弘3年(西暦1333年)5月、第96代後醍醐天皇が隠岐より還幸される際、楠木 正成(くすのき まさしげ)は一族郎党を率いて兵庫に迎え、先導して京へ上洛されました。これは楠公一代の盛事でした。本列はその楠公を中心とした行列で、楠公は紫末濃(むらさきすそご)の大鎧、兵庫鎖太刀(ひょうごくさりのたち)に豹の鞘(さや)、正季は逆沢瀉縅(さかおもだかおどし)の大鎧に革包太刀、蛭巻太刀(ひるまきのたち)を重ねて着け、侍大将は卯花縅(うのはなおどし)の胴丸を着けて、いずれも小刀を挿しています。この列の特徴は、腹巻、胴丸が多く、華麗な甲冑や武具が一目で見られることです。

  • 中世婦人列

    大原観光保勝会奉仕・桂・桂東婦人会輪番奉仕・京都花街組合連合会輪番奉仕

    中世とは広い意味で平安時代後半から桃山時代に至る時代をいいます。この列には歴史上の人物だけではなく、職業集団ともいえる女性も加わっています。大原女(洛北大原の婦人)は、古来薪や炭等を頭にのせ京の町へ売りに出る風習がありました。これは室町末期の姿です。桂女(桂川の鮎や飴を京の町々に売り歩いたり、婚礼や出産の時に祝詞をとなえる巫女などを業とした女性)室町頃の小袖に「桂包(かつらづつみ)」という独特の姿となっています。淀君(豊太閤の側室で浅井長政の娘、秀頼の生母)ここでは桃山時代を代表する豪華な衣裳を纏った外出姿です。原為家の室(阿仏尼)『十六夜(いざよい)日記』の著者で、所領訴訟のため東下りする旅姿です。静御前(源義経の愛妾)この行列では女人の舞装束として水干を着けた白拍子姿です。

鎌倉時代

  • 城南流鏑馬(やぶさめ)列

    平安講社 第四社(中京区・下京区)奉仕

    流鏑馬は平安朝以来行われた騎射の技で、馬場に3箇所の的を立て、射手が馬を馳せつつ矢つぎばやにこれを射るものです。承久3年(西暦1221年)5月、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復をはかられ、流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余国の武士1700余人を召し集められ、華美を競い武具を飾って盛大に行われたと伝えられています。本列は狩装束の射手武士(いでぶし)を中心に5組で組織されています。狩装束の騎馬の武士は綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、直垂(ひたたれ)を着け、手に弽(ゆがけ)をはめ、左手に射籠手(いごて)、腰下に鹿皮の行縢(むかばき)をつけ、物射沓(ものいぐつ)を履き箙(えびら)を負い、太刀、腰刀、鞭を帯に着け、弓、長刀を郎党に持たせた、さっそうとした姿です。

藤原時代

  • 藤原公卿参朝列

    平安講社 第三社(上京区・中京区)奉仕

    平安時代中期以降、藤原氏が隆盛を誇った時代の文武両様の姿を現したものです。 平安時代末期に唐様式が薄れ日本独自の国風文化が成熟し、強装束(こわしょうぞく)がおこり、大いに容儀が整えられた頃の服装にならったものです。この列は藤原氏全盛期の文武両様の王朝風俗で、参朝する位の高い貴族の文官、武官の夏の正装姿です。

  • 平安時代婦人列

    京都花街組合連合会輪番奉仕・京都市地域女性連合会奉仕

    遣唐使廃止頃から日本の文化は国風化がすすみ、400年も続いた平安時代をいろどる多彩な女性風俗の変遷を表したものです。巴御前は、木曽義仲の寵愛をうけた武勇のほまれ高い女性で、義仲にしたがって出陣したときの鎧姿です。横笛(建礼門院の雑仕女)滝口の武士斎藤時頼と恋におち、嵯峨へ時頼を訪ねる市女笠(いちめがさ)に袿(うちき)の旅姿です。 常盤御前(源義朝夫人)義朝亡き後、平清盛に許しを乞うため三児(今若・乙若・牛若)を連れて六波羅へ名乗り出る時の姿です。清少納言(枕草子の著者)紫式部(源氏物語の作者)前者は唐衣に裳を着けた女房装束(十二単)姿で女官の正装であり、後者は小袿衣(こうちぎ)姿で略装です。紀貫之の娘(貫之は延喜の頃の名歌人でその娘)10世紀半ばの若い未婚女性の平素の姿です。小野小町(宮廷に仕えた有名な女流歌人)正倉院御物や神像などから考証した唐風の残る女官の礼服姿です。和気広虫(和気清麻呂公の姉)慈悲深くわが国孤児院の起源をなした女性で、唐風を色濃く残した規定外の平服姿です。百済王明信(王敬福の曾孫で右大臣藤原継縄(つぐただ夫人)桓武天皇の信頼厚く、尚侍(ないしのかみ)として天皇を陰からささえた女性で、女官の礼服姿です。

延暦時代

  • 延暦武官行進列

    平安講社 第二社(左京区・北・上京・中京各区の一部)奉仕

    本列は延暦20年、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征を終えて平安京に凱旋する様を表しています。大将の坂上田村麻呂は、きらびやかな金小札(きんこざね)の甲冑に、金作りの直刀を差し、丸木弓を従者に持たせ、木地に漆画をほどこした鞍に赤革の三懸の馬に乗り、従者に矛持、弓持を従えています。この時代の考証史料は少なく、行装は正倉院御物や古墳の出土品などによって復元、その後の研究成果をもとに逐次改良が加えられています。

  • 延暦文官参朝列

    平安講社 第一社(北区・上京区)奉仕

    本列は延暦15年(796)、文官が朝賀の儀式のため参朝する様を表しています。服装は朝服(ちょうふく)で、身分によって色が定められています。三位は浅紫、四位は深緋、五位は浅緋、六位は深緑の袍を着用しています。当時は平安遷都から間もない時期で、まだ奈良時代の服制が受け継がれ、いわゆる唐風が色濃く残されています。 時代祭の全行列が平安神宮に還り着いた時に、代表して三位が大極殿で祭文を奏上します。

  • 神饌講社列

    京都料理組合奉仕

    本列よりご祭神の行列「神幸列」となります。時代祭当日の神饌物を奉献する役目の人達で、騎馬に白の礼装の御饌長(みけちょう)・副御饌長および水干(すいかん)姿の講員により組織されています。

  • 前列

    平安講社 第七社(左京区)奉仕

    神幸列の直前を行くので前列といいます。御賢木(おんさかき)を先頭に、迦陵頻(かりょうびん)、胡蝶(こちょう)の舞人、さらに雅楽の伶人など優美な衣裳の列で、多数の狩衣装束のお供が従います。

  • 神幸列

    御鳳輦(ごほうれん ご祭神の乗る御輿)を中心とした神幸の本列です。先に進む御鳳輦が孝明天皇、後の御鳳輦が桓武天皇で、宮司以下神職が前後に供奉します。こうして両御祭神が一年に一度、京都市内をご巡幸になって、市民の安らかな状を親しくご覧になるのが時代祭なのです。各列はこの神幸のお供をする行列となっています。

  • 白川女献花列

    白川女風俗保存会奉仕

    比叡山を源に発する白川の流域に住み、季節の花を売り歩くのを業とする女性が白川女(しらかわめ)です。その歴史は古く、平安時代中頃から御所に花を届けていたともいわれています。 本列は伝統的な白川女姿で、神前に献花する花を頭にのせています。

  • 弓箭組列

    南桑田郡(亀岡市)・船井郡(南丹市)有志>

    丹波国南桑田、船井両郡(京都府下)には、弓箭の技に秀でた人達が多く、桓武天皇平安遷都の際、その御列の警護に当ったともいわれ、その子孫の人々もまた明治維新の際には弓箭組を作り山陰鎮撫に当ったとも伝えられています。お供の人々は引立烏帽子(ひきたてえぼし)に直垂(ひたたれ)を着け、太刀を差し弓箭を携え、時代祭創設当初より御祭神の警護役を担っています。

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