
<平安講社第10社(伏見区)奉仕>
豊臣公参朝のうち、慶長元年(西暦1596年)5月の秀頼初参内(さんだい 朝廷へ参上すること)と、同2年9月の元服の時は最も盛儀であったと伝えられていて、本列はその様相を模したものです。
参内の乗物は特に盛儀に使われた牛車(ぎっしゃ)で、檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)といい、蒲葵(びろう)の葉で葺き、すだれなどの色文(いろあや)装具は最高の様式のものです。
牽馬(ひきうま)には豊公時代の遺宝である盧の高蒔絵(ろのたかまきえ)の鞍を模し、前後に従う大名は実際はもっと多数ですが、本列はその一部を現わしたものです。
服装は当時特に「一日晴れ」として規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通でなく、袴をつけ、太刀も武家風です。また牛童(うしわらわ)、牛飼(うしかい)などは公家風ですが、徒歩の者は当時の武家風の特徴を現わしています。

<平安講社第5社(東山区・山科区、中京・下京区の一部)奉仕>
応仁の乱の後京都は非常にさびれ、皇室も衰微してしまいました。永禄11年(西暦1568年)9月、織田信長はお召しに応じ、兵をひきいて上洛し、皇居を修理、都の復興に努めて民を落着かせました。
本列はその織田公上洛を模したもので、立入宗継(たてりむねつぐ)は命を受けて、粟田口(京都市東山区)に織田公を出迎えました。
この時代に注目すべきは、戦に鉄砲が導入されたことです。甲冑(かっちゅう)の多くは胴丸で、各部に鉄板を使った、いわゆる当世具足(とうせいぐそく)の新形式で、江戸時代にかけて用いられたものです。
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