実美らはかねてから攘夷をとなえ、幕府に策がないことから、積極派の志士たちと直接行動に出ようとしました。しかし穏健派は中川宮を動かし、文久3年(西暦1863年)8月18日未明にわかに朝議をくつがえしました。
朝廷に参ることをとめられた七卿は同志の長州藩に身を寄せるため、藩兵に衛られながら夜陰に紛れて雨のなかを空しく長州へ落ちのびました。
志士真木和泉は、筑前久留米の神官で、早くから尊皇攘夷をとなえ、京へ頻繁に足を運んで実美らの公卿を説き動かしました。元治の変には久坂玄瑞と行動を一つにして、後に天王山において敗れ、自刃しました。享年53歳。
久坂玄瑞は、長州藩士、高杉晋作とともに松下村塾の双璧とうたわれ、尊皇攘夷派の積極論者で七卿の変にも参画しました。後に藩主の雪辱をはかって上洛し、蛤御門で戦い(禁門の変)敗れて自刃しました。享年25歳。
吉村 寅太郎(よしむら とらたろう)
土佐藩士、京都に出て国事に奔走、平野国臣らとともに盛んに尊皇攘夷をとなえ、四方の志士をふるいたたせました。同志とともに天誅組を組織してその先方となって京に兵を挙げましたが、遂にこころざしを達せられず、自刃しました。享年26歳。
頼 三樹三郎(らい みきさぶろう)
京都の人、頼山陽(らいさんよう 儒学者・史家)の第3子で憂国のこころざし深く、同志と集って盛んに幕政の非を叫んだため、ついに安政5年に捕えられ、翌年江戸で処刑(安政の大獄)されました。享年35歳。
梅田 雲浜(うめだ うんびん)
小浜藩士、和漢の学に通じ、その徳をもって子弟を教え導きました。早くから攘夷をとなえ、水戸藩に対する密勅降下(内々に陛下からご下命のあること)に尽力しましたが、安政5年に幕府に捕えられ、翌年獄中で病死しました。享年44歳。
橋本 左内(はしもと さない)
福井藩士、蘭学医学をおさめ、洋学にも通じて時勢に通じていたため、その才覚を認められて藩政に尽力しました。後に一橋慶喜を将軍に立てようとして奔走しましたが、安政5年に捕えられて投獄され斬刑に処せられました。享年26歳。服装は旅姿となっています。
吉田 松陰(よしだ しょういん)
長州藩士、和漢の学をはじめ兵学をおさめ、諸国を歴訪して知名士たちと交流をもちました。攘夷論者でしたが、海外の事情を学ぼうと長崎にはしり、また下田では密航を企てたが稔らず、幽閉の身となりました。後の安政4年には松下村塾を開き、尊王攘夷運動の指導者育成にあたったが、翌年に安政の大獄で処刑されました。享年30歳。
近衛 忠熈 (このえ ただひろ)
孝明天皇の皇太子時代の東宮傅(とうぐうのふ 皇太子に奉仕する官)、即位されて右大臣、次いで左大臣に昇りました。事変で官を辞して仏門へ入りましたが、後に還俗して関白となりました。勤王派。ここでは関白の束帯(そくたい)姿で随身(ずいしん)と舎人(とねり)を従えています。
姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)
三條実美とともに勤王派として奔走しましたが、文久3年御所東北の猿ガ辻で暗殺されました。享年25歳。ここでは衣冠(いかん)の参朝姿です。
三條 実萬(さんじょう さねつむ)
文政7年権大納言、安政4年に内大臣。勤王家で、実美の父。武家伝奏(ぶけてんそう 朝廷と幕府の間の連絡にあたった役職)として公武の協和に勉めましたが、安政5年に官を辞して仏門へ入り、翌年亡くなりました。孝明天皇の思召もあり、後に梨木神社の祭神として祀られました。ここでは直衣(のおし)姿です。
中山 忠能(なかやま ただやす)
明治天皇御実母の父君。大納言でしたが文久3年に官を辞しました。勤王家で和宮の宮家別当。(長官)をつとめ、後に輔弼(ほひつ 天皇の行政を直接助ける職)の大任につき従一位に叙せられました。ここでは小直衣(このおし)姿です。
平野 国臣(ひらの くにおみ)
福岡藩士、和歌、雅楽、漢書、書画、武芸に長じて、早くから勤王の志を抱き、国事に奔走しましたが文久3年同志に呼応して生野に挙兵して敗れ、捕えられて処刑されました。享年43歳。