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平安神宮
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時代祭

時代祭由緒
時代祭行列

【明治維新時代】
 維新勤王隊列
 維新志士列
【江戸時代】
 徳川城使上洛列
 江戸時代婦人列
【安土桃山時代】
 豊公参朝列
 織田公上洛列
【室町時代】
 室町幕府執政列
 室町洛中風俗列
【吉野時代】
 楠公上洛列
 中世婦人列
【鎌倉時代】
 城南流鏑馬列
【藤原時代】
 藤原公卿参朝列
 平安時代婦人列
【延暦時代】
 延暦武官行進列
 延暦文官参朝列
 神饌講社列
 前列
 神幸列
 弓箭組列
行列順路
時代祭行列
明治維新時代
維新勤王隊列
<平安講社第8社(中京区・朱雀学区)奉仕>
 明治維新の際、幕府の遺臣が東北地方で反抗した時、丹波の国北桑田郡山国村の有志が山国隊を組織して、官軍に参加した当時の行装を模したもので、三斎羽織(さんさいはおり)に義経袴をはき、下には筒袖の衣、頭に鉢巻または赤熊(しゃぐま)をかぶり、脚絆(きゃはん)、足袋、草鞋(わらじ)をはき、刀を身につけ、鉄砲を携えた姿です。この山国隊は、時代祭の始まった当時は、同村有志が奉仕していましたが、大正10年より朱雀学区がこれに代って奉仕するようになりました。
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維新志士列
<京都青年会議所奉仕>
(孝明天皇百年祭を記念して昭和41年より参加)
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桂 小五郎(かつら こごろう)
 萩藩士、王政復古に尽力し、維新の事業に功労があった西郷隆盛、大久保利通(おおくぼ としみち)とともに維新三傑と称せられます。後の木戸孝允(きど たかよし)

西郷 吉之助(さいごう きちのすけ)
 薩摩藩士、憂国のこころざし厚く、島津齊彬(しまづ なりあきら)に抜擢されて国事に奔走。幕末には長州藩と幕府の間に尽力し、維新の大業を助成しました。

坂本 龍馬(さかもと りょうま)
 土佐藩士、剣術にすぐれ、のち勝安房(あわのかみ・勝海舟)の門弟として海兵の術をおさめ、維新大業の基礎に参画しました。卓越した識見を持っていましたが、幕府方の疑うところとなって、慶応3年京都で暗殺されました。享年33歳。

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)
 土佐の人、経書や歴史書を学び詩文をよくおさめ、武術にも秀でていました。龍馬と並んで国事に奔走しましたが、共に京都で暗殺されました。享年30歳。

高杉 晋作(たかすぎ しんさく)
 長州藩士、松下村塾に学んで久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の双璧と称せられました。機略に富み、諸名士とまじわるなど内外の知見を広めて国事に奔走しましたが、慶応3年、享年29歳で病死しました。

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七卿落(しちきょうおち)
志士 真木 和泉(まき いずみ)
志士 久坂 玄瑞(くさか げんずい)
公卿 三條 実美(さんじょう さねとみ)
公卿 三條西 季知(さんじょうにし すえとも)
公卿 東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)
公卿 壬生 基修(みぶ もとおさ)
公卿 四条 隆詞(しじょう たかうた)
公卿 錦小路 頼徳(にしきこうじ よりのり)
公卿 澤 宣嘉(さわ のぶよし)

 実美らはかねてから攘夷をとなえ、幕府に策がないことから、積極派の志士たちと直接行動に出ようとしました。しかし穏健派は中川宮を動かし、文久3年(西暦1863年)8月18日未明にわかに朝議をくつがえしました。
 朝廷に参ることをとめられた七卿は同志の長州藩に身を寄せるため、藩兵に衛られながら夜陰に紛れて雨のなかを空しく長州へ落ちのびました。
 志士真木和泉は、筑前久留米の神官で、早くから尊皇攘夷をとなえ、京へ頻繁に足を運んで実美らの公卿を説き動かしました。元治の変には久坂玄瑞と行動を一つにして、後に天王山において敗れ、自刃しました。享年53歳。
 久坂玄瑞は、長州藩士、高杉晋作とともに松下村塾の双璧とうたわれ、尊皇攘夷派の積極論者で七卿の変にも参画しました。後に藩主の雪辱をはかって上洛し、蛤御門で戦い(禁門の変)敗れて自刃しました。享年25歳。

吉村 寅太郎(よしむら とらたろう)
 土佐藩士、京都に出て国事に奔走、平野国臣らとともに盛んに尊皇攘夷をとなえ、四方の志士をふるいたたせました。同志とともに天誅組を組織してその先方となって京に兵を挙げましたが、遂にこころざしを達せられず、自刃しました。享年26歳。

頼 三樹三郎(らい みきさぶろう)
 京都の人、頼山陽(らいさんよう 儒学者・史家)の第3子で憂国のこころざし深く、同志と集って盛んに幕政の非を叫んだため、ついに安政5年に捕えられ、翌年江戸で処刑(安政の大獄)されました。享年35歳。

梅田 雲浜(うめだ うんびん)
 小浜藩士、和漢の学に通じ、その徳をもって子弟を教え導きました。早くから攘夷をとなえ、水戸藩に対する密勅降下(内々に陛下からご下命のあること)に尽力しましたが、安政5年に幕府に捕えられ、翌年獄中で病死しました。享年44歳。

橋本 左内(はしもと さない)
 福井藩士、蘭学医学をおさめ、洋学にも通じて時勢に通じていたため、その才覚を認められて藩政に尽力しました。後に一橋慶喜を将軍に立てようとして奔走しましたが、安政5年に捕えられて投獄され斬刑に処せられました。享年26歳。服装は旅姿となっています。

吉田 松陰(よしだ しょういん)
 長州藩士、和漢の学をはじめ兵学をおさめ、諸国を歴訪して知名士たちと交流をもちました。攘夷論者でしたが、海外の事情を学ぼうと長崎にはしり、また下田では密航を企てたが稔らず、幽閉の身となりました。後の安政4年には松下村塾を開き、尊王攘夷運動の指導者育成にあたったが、翌年に安政の大獄で処刑されました。享年30歳。

近衛 忠熈 (このえ ただひろ)
 孝明天皇の皇太子時代の東宮傅(とうぐうのふ 皇太子に奉仕する官)、即位されて右大臣、次いで左大臣に昇りました。事変で官を辞して仏門へ入りましたが、後に還俗して関白となりました。勤王派。ここでは関白の束帯(そくたい)姿で随身(ずいしん)と舎人(とねり)を従えています。
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姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)
 三條実美とともに勤王派として奔走しましたが、文久3年御所東北の猿ガ辻で暗殺されました。享年25歳。ここでは衣冠(いかん)の参朝姿です。

三條 実萬(さんじょう さねつむ)
 文政7年権大納言、安政4年に内大臣。勤王家で、実美の父。武家伝奏(ぶけてんそう 朝廷と幕府の間の連絡にあたった役職)として公武の協和に勉めましたが、安政5年に官を辞して仏門へ入り、翌年亡くなりました。孝明天皇の思召もあり、後に梨木神社の祭神として祀られました。ここでは直衣(のおし)姿です。

中山 忠能(なかやま ただやす)
 明治天皇御実母の父君。大納言でしたが文久3年に官を辞しました。勤王家で和宮の宮家別当。(長官)をつとめ、後に輔弼(ほひつ 天皇の行政を直接助ける職)の大任につき従一位に叙せられました。ここでは小直衣(このおし)姿です。

平野 国臣(ひらの くにおみ)
 福岡藩士、和歌、雅楽、漢書、書画、武芸に長じて、早くから勤王の志を抱き、国事に奔走しましたが文久3年同志に呼応して生野に挙兵して敗れ、捕えられて処刑されました。享年43歳。

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